マッカーサーと現代日本の夜明け(特別企画展)

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2025年6月28日(土)~8月17日(日)まで、みやざきアートセンターで開催される特別「マッカーサーと現代日本の夜明け」の公式Facebookページです。太平洋戦争終結80年記念特別企画展として故マッカーサー元帥の生涯と、1945年~1951年まで、現代日本の基礎を創ったGHQ占領下の日本でどんなことがあったのかを検証する特別展です。

本日7月17日で特別企画展『マッカーサーと現代日本の夜明け』閉幕いたします。企画をする時に、史実に基づき中立に、マッカーサー記念館から資料をお借りして、マッカーサーという人物を通して80年前の日本がどう変わったか?その時の日本人の想いは、戦...
17/08/2025

本日7月17日で特別企画展『マッカーサーと現代日本の夜明け』閉幕いたします。企画をする時に、史実に基づき中立に、マッカーサー記念館から資料をお借りして、マッカーサーという人物を通して80年前の日本がどう変わったか?その時の日本人の想いは、戦争に負けたという悲惨さと、新しい社会に向けての希望が交錯した時代でした。どのようなことが起き、どんな風に日本は変わっていったか?その時の想いは現代に反映されているのか?そしてこれからの社会をどう創造していけばいいのか?そんなことを考える切っ掛けになればという想いで企画させていただきました。バージニア州ノーフォーク市にあるマッカーサー記念館から提供いただいた資料は、展示している資料の約5倍。全部展示したかったのですが、スペースの関係で約160点になってしまいました。
戦後80年経った今、私たちは今一度過去の歴史を検証できる展覧会になっていると思います。歴史の中で闇に葬られたものは沢山ありますが、『名探偵コナン』流に言わせていただければ『真実はひとつ』しかありません。しかし、その真実は見た人の立場、国籍や文化、世代によっても様々な解釈が存在します。自分で見たものを咀嚼して自分なりに解釈し、少しでもいい社会を作っていくことを考える契機になればと願っております。
本日は午後1時30分から、みやざきアートセンターのスタッフによるギャラリートークを開催いたします。未見の方は是非、お越しください。

※ レイテ沖に上陸するマッカーサーの有名な写真の1枚。一度撮ったが角度が悪いということで、翌日、部下を引き連れ再度撮影したという…真実は1つ…じゃないこともあります…

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

マッカーサーは太平洋戦争でアメリカを勝利に導いた連合軍総司令官として、米国民やメディアから英雄のように扱われていた。だが彼は1948年の大統領選挙に色気を出し、共和党の候補者を選ぶ予備選挙に出馬したが、有力者の支持が盛り上がらず早々とレース...
15/08/2025

マッカーサーは太平洋戦争でアメリカを勝利に導いた連合軍総司令官として、米国民やメディアから英雄のように扱われていた。だが彼は1948年の大統領選挙に色気を出し、共和党の候補者を選ぶ予備選挙に出馬したが、有力者の支持が盛り上がらず早々とレースから脱落している。かつての部下だったアイゼンハワーが軍人というよりはむしろ政治的な人間で、次第に政治家として頭角を現していったのとは対照的に、マッカーサーは政治に向かないタイプの人間だった。
マッカーサーは1951年4月11日にトルーマンに解任された。その理由については、満州への爆撃や原爆の使用などの強硬な主張をくり返してトルーマンと衝突したためだったと言われているが、じつは原爆使用の主張は、マッカーサー記念館には一切残っていない。早くこの戦争を終結させろということは発言している記録は残っているが、原爆の使用に関しての記録は、早く戦争を終わらせるという意見に尾ひれがついたものと思われる。
北朝鮮軍が侵攻を開始してまもない1950年7月上旬に、すでに原爆使用の可能性が話し合われているのだ。最初に原爆の使用を口にしたのはアイゼンハワーだった。
マッカーサーの傲岸不遜な発言やトルーマン批判がエスカレートしていったのは、1950年9月15日の仁川再上陸作戦が成功してからだった。それまでペンタゴンの上層部が認めなかった作戦を一か八かでやらせてみたら成功したのだから、自己顕示欲の強いマッカーサーが得意満面になったという。この作戦の成功でアメリカ国内のマッカーサー人気が爆発的に高まり、統合参謀本部はマッカーサーを批判することができなくなった。
だが、
マッカーサーは、部下を現地司令官として韓国に派遣して、自分は東京で取り巻きに囲まれて居心地の良い生活を続けており、現地を視察に行っても日帰りで東京に戻ってしまい、朝鮮半島に一晩も滞在したことがなかった。またマッカーサーははじめから「北朝鮮に侵攻して(中国との国境の)鴨緑江まで進撃する」と挑発的な発言をくり返していたが、その発言は「38度線より北で行う作戦については、ホワイトハウスの承認を必要とする」という鉄則を無視したものだった。
仁川の再上陸作戦から1ヵ月後の10月15日、太平洋のウェーク島でトルーマンとマッカーサーの会談が持たれた。じつは中間選挙を目前にひかえたトルーマンが国民の注目を集めるために行ったパフォーマンスだったというのが真相だ。トルーマンは、太平洋戦争末期にルーズベルト大統領がフィリピンにいるマッカーサーを訪問して激励し、それがアメリカのメディアに大きく報道されて国内のルーズベルト人気が高まった前例に倣おうとしたのだろという。ところがマッカーサーは、そのことを見透かしたかのようにわざと遅れて到着し、トルーマンを滑走路わきで待たせたうえ、対面した際には敬礼せず握手をしている。軍人が国の最高司令官である大統領に対して敬礼しないというのは相当な非礼だとトルーマンは立腹。この会談がトルーマンの国内向け政治パフォーマンスだったのは見え見えで、2人は朝鮮戦争の戦略についてはまったく話し合わず、交わした会話は東アジア情勢全般に関する漠然とした内容ばかりだった。トルーマンとの関係は、これまでにも増して悪化し、1951年4月にマッカーサーは5年8カ月にわたるGHQの総司令官を解任されることになる…

※ 写真はウェーク島の滑走路脇で握手を交わすマッカーサーとトルーマン

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

戦後米国でのジャパン・ソサエティー、アジア・ソサエティーでの活動で活躍したベアテだが、1990年代半ばまで自らが憲法草案に関わったことは公表していなかった。その理由について「(法律の専門家でもない22歳の女性だった)自分の存在が改憲派の学者...
14/08/2025

戦後米国でのジャパン・ソサエティー、アジア・ソサエティーでの活動で活躍したベアテだが、1990年代半ばまで自らが憲法草案に関わったことは公表していなかった。その理由について「(法律の専門家でもない22歳の女性だった)自分の存在が改憲派の学者に悪いように利用されると思っていましたから」という。
実際、ベアテは通訳として日本側との交渉に同席した自分を「ハデな化粧と服装(の女)」と揶揄する文章を目にしたことがあるという。ただ、憲法制定過程について発言してきた元上官ケーディスが自らの高齢を気にかけ、生き証人としての役割をベアーテに求めると「ケーディスさんが女性の権利起草についてみなさんに話しなさい、というんですもの。何年たってもボスの命令には逆らえませんから」と重い口を開き始めたという。
実際にベアテの書いた草案を削ったケーディスであったが、女性の権利起草については誇らしく思っていたのかもしれない…
ロシア語も堪能なベアーテがいたために、最終的にはカットされた「土地国有化」の条項がソ連憲法から草案に取り入れられた、と考えられる。
1946年3月4日から始まったGHQ案を日本語に翻訳する作業でも、ベアテの日本語の能力は、アメリカ側にも日本側にも印象づけられる結果となる。 ベアテは制約が多く意味が深い日本語(「輔弼」など)のニュアンスをアメリカ側に伝え、時々は当時の日本の習慣について説明し日本側の見解を擁護したことで、日本政府の代表にも好感を持たれていた。
ベアテの著書には『1945年のクリスマス 日本国憲法に「男女平等」を書いた女性の自伝 』(1995年・柏書房/刊)。記録映画『ベアテの贈りもの The Gift from Beate』(2005年・藤原智子/監督)がある。
1990年代から、日本国内で女性の権利起草に関する講演を日本各地で行い、2001年には宮崎県の清武町文化会館でも講演を行っている。

※ 写真は『徹子の部屋』に出演したベアテ・シロタ・ゴードン

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

ベアテが起草を手がけた詳細にわたる記述は、主に運営委員会・ケーディス大佐の反対で大半が削除された。ベアテはその時の思いについて「痛みを伴った悔しさが、私の全身を締め付け、それがいつしか涙に変わっていた」と表現していた。後には本人も「アメリカ...
13/08/2025

ベアテが起草を手がけた詳細にわたる記述は、主に運営委員会・ケーディス大佐の反対で大半が削除された。ベアテはその時の思いについて「痛みを伴った悔しさが、私の全身を締め付け、それがいつしか涙に変わっていた」と表現していた。後には本人も「アメリカは、そもそも憲法上女性の権利や社会保障について規定していません。運営委員会の人たちは米国の弁護士で、しかもみな40歳以上の男性で、(人権条項を細かく規定した)欧州法など知らなかったのです」と冷静に分析している。
ベアテが考えた人権規定の精神は、現行憲法では第24条、第25条、第27条に生かされることになった。ベアテの草案の一部は、次の通り。

第19条
妊婦と幼児を持つ母親は国から保護される。必要な場合は、既婚未婚を問わず、国から援助を受けられる。非嫡出子は法的に差別を受けず、法的に認められた嫡出子同様に身体的、知的、社会的に成長することにおいて権利を持つ。

第20条
養子にする場合には、その夫と妻の合意なしで家族にすることはできない。養子になった子どもによって、家族の他の者たちが不利な立場になるような特別扱いをしてはならない。長子の権利は廃止する。

第21条
すべての子供は、生まれた環境にかかわらず均等にチャンスが与えられる。そのために、無料で万人共通の義務教育を、八年制の公立小学校を通じて与えられる。中級、それ以上の教育は、資格に合格した生徒は無料で受けることができる。学用品は無料である。国は才能ある生徒に対して援助することができる。

第24条
公立・私立を問わず、児童には、医療・歯科・眼科の治療を無料で受けられる。成長のために休暇と娯楽および適当な運動の機会が与えられる。

第25条
学齢の児童、並びに子供は、賃金のためにフルタイムの雇用をすることはできない。児童の搾取は、いかなる形であれ、これを禁止する。国際連合ならびに国際労働機関の基準によって、日本は最低賃金を満たさなければならない。

第26条
すべての日本の成人は、生活のために仕事につく権利がある。その人にあった仕事がなければ、その人の生活に必要な最低の生活保護が与えられる。女性はどのような職業にもつく権利を持つ。その権利には、政治的な地位につくことも含まれる。同じ仕事に対して、男性と同じ賃金を受ける権利がある。

現行憲法第24条の下敷きとなった草案全文は次のようになっていた。

第18条
家庭は、人類社会の基礎であり、その伝統はよきにつけ悪しきにつけ、国全体に浸透する。それ故、婚姻と家庭とは法の保護を受ける。婚姻と家庭とは、両性が法律的にも社会的にも平等であることは当然である。このような考えに基礎をおき、親の強制ではなく相互の合意にもとづき、かつ男性の支配ではなく両性の協力にもとづくべきことをここに定める。これらの原理に反する法律は廃止され、それにかわって配偶者の選択、財産権、相続、住居の選択、離婚並びに婚姻及び家庭に関するその他の事項を、個人の尊厳と両性の本質的平等の見地に立って定める法律が制定されるべきである。

憲法第14条一項(法の下の平等)草案もベアーテが起草している。

約10日間とう短い時間で、ベアテが起草したGHQ草案は全てが採用されなかったものの、現行憲法の14条、24条に活かされている。当時22歳の女性が描いた理想を、アメリカから押し付けられた憲法と単純に言い切っていいのか?それぞれで判断してみてください。

https://www.youtube.com/watch?v=qdf_J2UxRNE

※ 動画は守屋浩の「二十四条知ってるかい」より

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

Provided to YouTube by Nippon Columbia Co., Ltd.二十四条知ってるかい · 守屋浩 · 服部 レイモンド · 服部 レイモンド(決定盤)守屋浩大全集 ~僕は泣いちっち・月のエレジー~℗ Nippon Columbia Co., Ltd.Released on: 201...

13/08/2025
マッカーサー元帥の率いるGHQ民政局で、ベアテは政党課に配属され、女性団体やミニ政党、女性運動家などを調査する公職追放担当の調査専門官となる。待遇は日本に帰国する直前まで勤めていたタイム誌とは雲泥の差で、一人前のスタッフとして扱われたため、...
12/08/2025

マッカーサー元帥の率いるGHQ民政局で、ベアテは政党課に配属され、女性団体やミニ政党、女性運動家などを調査する公職追放担当の調査専門官となる。待遇は日本に帰国する直前まで勤めていたタイム誌とは雲泥の差で、一人前のスタッフとして扱われたため、仕事に没頭できたと本人は回顧している。
1946年2月4日、ベアテら民政局行政部スタッフ25人はコートニー・ホイットニー民政局長に召集され、GHQによるモデル憲法草案起草の極秘命令を受ける。ベアーテは通訳や秘書でなく正規スタッフとしてメンバーに入ったことに「意外だった」「急にいわれて、最初の五分間は何がなんだか分からず、ただびっくりしていた」という。ちなみに後に彼女の夫となるジョセフ・ゴードン中尉は通訳担当だった。
草案作成の命令を受けた後にベアーテが最初にとった行動は、都内の図書館に出かけて各国の憲法について書かれた資料を借り出すことだった。 流暢な日本語とタイム誌で培われたリサーチャーとしての能力がここで威力を発揮し、ベアテが収集した大量の資料は他の草案作成のメンバーにも重宝がられ、わずか22歳のベアテの名は民政局内で有名になった。
3名で構成された人権小委員会でベアテが担当したのは、社会保障と女性の権利についての条項であった。とりわけ「女性の権利」については、当時の世界の憲法において最先端ともいえる内容の人権保護規定をベアテが書いた。アメリカ合衆国憲法には、60年経過した現在も「両性の本質的平等」にあたる規定が存在せず、彼女の草案が画期的であり、見方を変えれば急進的であったことがうかがえる。

※ 写真はベアテとGHQのメンバーたち
#みやざきアートセンター #マッカーサーと現代日本の夜明け #ベアテ

ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンで、ロシア帝国(現・ウクライナ)キエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、母アウグスティーネの間に生まれる。父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、国際的に著名なピアニ...
11/08/2025

ベアテ・シロタは1923年10月25日、ウィーンで、ロシア帝国(現・ウクライナ)キエフ出身のユダヤ人でピアニストとして有名な父レオ・シロタと、母アウグスティーネの間に生まれる。
父のレオ・シロタは「リストの再来」と呼ばれ、国際的に著名なピアニストで、遠征公演に明け暮れていた。ハルビン公演を聞いた山田耕筰が1928年5月18日、ホテルを訪れ、日本での公演を依頼。レオはその年に訪日して一カ月で16回の公演を行ない、訪日中、山田耕筰はレオを東京音楽学校(現・東京芸術大学)教授に招聘する。
父に連れられて五歳半で初来日。半年間滞在のはずが、世界恐慌によりヨーロッパで未曾有の不況が続く一方、ドイツでは1930年9月にユダヤ人を排斥するナチ党(国家社会主義ドイツ労働者党)が総選挙で第二党となったため、シロタ家は日本滞在を続けることになる。ベアテは6歳のころから、ピアノとダンスを習い、さまざまなコンサート、オペラ、日本の伝統芸能を含む芝居などに馴染み、成長期に日本の文化を積極的に吸収して育つ。日本での10年弱の生活で、ベアーテはすでにロシア語(両親の母語)、ドイツ語(幼少時代とドイツ学園)、フランス語(家庭教師)、英語(家庭教師)、ラテン語(ドイツ学園とアメリカン・スクール)、さらに日本語を習得する。
1939年5月、アメリカン・スクールを卒業した15歳のベアテは、ソルボンヌ大学を志望したが、当時フランスとドイツが開戦直前の情勢だったため、両親はカリフォルニア州サンフランシスコ近郊オークランドの全寮制の女子大学ミルズ・カレッジ(Mills College)へ留学させる。専攻は文学とし、フランス語の研究会や演劇部に所属。勤労女性は貧困階級であることが常識だった当時の米国で、ミルズ・カレッジの学長オーレリア・ヘンリー・ラインハートは、女性の社会への進出と自立を唱える、いわゆる進歩的なフェミニスト女性だった。大学では、卒業後には就職することを前提としたカリキュラムが組まれ、学長はまた、女子学生に対し職業を持ち政治に参加する必要性を説いていた。女性の権利と女性差別の現実を学んだベアーテは、大学時代にフェミニストとしての自覚を持つ。
卒業年を迎えたベアーテはミルズ・カレッジを最優秀の成績で卒業。卒業後、FCCから戦争情報局に転職、対日プロパガンダ放送(日本人に降伏を呼びかける放送)の番組台本原稿作成の仕事に従事。二年足らずのUSOWI勤務の後、退職し、1945年3月に住み慣れたサンフランシスコから叔母(母の妹)の住むニューヨークへ転居。
ニューヨークで得た職はタイム誌のリサーチャー(editorial researcher - 記事の素材調査員)であった。当時のタイム誌では、記者は全て男性で、記者として女性は採用せずリサーチャーは全員女性、給与も女性の方が低い。記者はリサーチャーの収集した情報素材で原稿を書き、リサーチャーが原稿の校正を行なうことになっていた。記事に誤りがあれば、記者(男性)の責任は問われず、リサーチャー(女性)が責任を問われて減俸の対象となった。「自由」と「民主主義」の先進国だったはずの米国で、女性を差別(性別による職業差別)する現実に直面し、ベアーテは渡米以来、初めての屈辱と挫折感を味わう。とはいえ、タイム誌はリサーチャーとしての訓練を施したため、後のGHQによる日本国憲法起草の際、ここで培った能力が生きることとなる。

※ 写真は若き日のベアテ・シロタ・ゴードン
  写真提供(国立女性教育会館)

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが、最終的には天皇よりアメリカ側に会見を申し出た...
11/08/2025

GHQは、支配者マッカーサーを全日本国民に知らしめるため、劇的な出来事が必要と考え、昭和天皇の会談を望んでいた。昭和天皇もマッカーサーとの会談を望んでおり、どちらが主導権をとったかは不明であるが、最終的には天皇よりアメリカ側に会見を申し出た。マッカーサー個人は「天皇を会談に呼び付ければ日本国民感情を踏みにじることになる……私は待とう、そのうち天皇の方から会いに来るだろう」と考えていたということで、マッカーサーの要望どおり昭和天皇側より会見の申し出があった時には、マッカーサーと幕僚たちは大いに喜び興奮した。昭和天皇からは目立つ第一生命館ではなく、駐日アメリカ大使公邸で会談したいとの申し出であった。しかし日本側の記録によると、外務大臣に就任したばかりの吉田茂が、第一生命館でマッカーサーと面談した際に、マッカーサーが何か言いたそうに「モジモジ」していたので、意を汲んで昭和天皇の訪問を申し出、マッカーサー側から駐日アメリカ大使館を指示されたとのことで、日米で食い違っている。
1945年9月27日、大使館公邸に訪れた昭和天皇をマッカーサーは出迎えはしなかったが、天皇の退出時には、自ら玄関まで天皇を見送るという当初予定になかった行動を取って好意を表した。会談の内容については日本とアメリカ両関係者より、内容の異なる様々な証言がなされており、詳細なやり取りは推測の域を出ないが、マッカーサーと昭和天皇は個人的な信頼関係を築き、その後合計11回にわたって会談を繰り返し、マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深める結果になった。
その際に略装でリラックスしているマッカーサーと、礼服に身を包み緊張して直立不動の昭和天皇が写された写真が翌々日、29日の新聞記事に掲載されたため、当時の国民にショックを与えた。歌人斎藤茂吉は、その日の日記に「ウヌ!マッカーサーノ野郎」と書き込むほどであったが、多くの日本国民はこの写真を見て日本の敗戦を改めて実感し、GHQの目論見どおり、日本の真の支配者は誰なのか思い知らされることとなった。ちなみにその写真を撮影したのは、ジェターノ・フェーレイスである。この写真は3種類あるが、1枚はマッカーサーが目をつぶっており、もう1枚は天皇陛下が口が開いていたので、最終的のこの写真が世に出回ったのだが、『マッカーサーと現代日本の夜明け』では、この写真にマッカーサー自身と昭和天皇自身が署名されたものが展示されている。この署名入りの写真は3枚作成され、マッカーサーと昭和天皇が1枚づつ。天皇家とGHQのリエゾンを務めたGHQのスタッフの3者が所有しているという。
連合国軍による占領下の日本では、GHQ/SCAPひいてはマッカーサーの指令は絶対だったため、サラリーマンの間では「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行った。「天皇より偉いマッカーサー」と自虐、あるいは皮肉を込めて呼ばれていた。また、東條英機が横浜の野戦病院(現横浜市立大鳥小学校)に入院している際にマッカーサーが見舞いに訪れ、後に東條は重光葵との会話の中で「米国にも立派な武士道がある」と感激していたといる。

※ 写真は1945年9月27日に初めてマッカーサーと天皇が会見した時に撮影され署名された写真3点(1枚目が2人の署名入り)

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター
#ベアテ

マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されている。 その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、...
09/08/2025

マッカーサーのところに送られてくる日本の団体・個人から寄せられた手紙は全て英訳されて、重要なものはマッカーサーの目に通され、その一部が保存されている。 その手紙の一部の内容が袖井林二郎の調査により明らかにされた。ただし手紙の総数については、連合軍翻訳通信班(ATIS)の資料(ダグラス・マッカーサー記念館所蔵)で1946年5月 -1950年12月までに受け取った手紙が411,816通との記載があり、袖井は終戦から1946年4月までに受け取った手紙を10万通と推定して合計50万通としているが、CIEの集計によれば、終戦から1946年5月末までに寄せられた手紙は4,600通に過ぎず、合計しても50万通には及ばない。また手紙の宛先についても、マッカーサー個人宛だけではなく、GHQの各部局を宛先とした陳情・請願・告発・声明の他に、地方軍政を司った地方軍政部を宛先とした手紙も相当数に上っている。
マッカーサーやGHQ当局への日本人の投書のきっかけは、1945年8月の終戦直後に東久邇宮稔彦王総理大臣が国民に向けて「私は国民諸君から直接手紙を戴きたい、嬉しいこと、悲しいこと、不平でも不満でも何でも宜しい。私事でも結構だし公の問題でもよい…一般の国民の皆様からも直接意見を聞いて政治をやっていく上の参考としたい」と新聞記事を使って投書を呼び掛けたことにあった。その呼び掛けにより、東久邇宮内閣への投書と並行して、マッカーサーやGHQにも日本人からの手紙が届くようになった。しかし、当初はマッカーサーやGHQに届く手紙の数は少なく、1945年末までは800通足らずに過ぎなかった。しかし、11月頃には東久邇宮内閣に対する投書が激増し、ピーク時で一日1,371通もの大量の手紙が届くようになると、マッカーサーとGHQへの手紙も増え始め、東久邇宮内閣が早々に倒れると、日本政府に殺到していた手紙がマッカーサーやGHQに送られるようになった。マッカーサーやGHQに手紙が大量に届くような流れを作ったのは東久邇宮稔彦王であるが、日本国民はマッカーサーやGHQの意向で早々と倒れる日本の内閣よりも、日本の実質的な支配者であったマッカーサーやGHQを頼りとすることとなったのである。

※ 写真はマッカーサー宛に送られた、小学生からの手紙

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領...
09/08/2025

連合国軍最高司令官としての任務期間中、マッカーサー自身は1948年の大統領選挙への出馬を望んでいた。しかし、現役軍人は大統領になれないことから、占領行政の早期終結と凱旋帰国を望んだ。そのため、1947年からマッカーサーはたびたび「日本の占領統治は非常にうまく行っている」「日本が軍事国家になる心配はない」などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって日本への占領を終わらせるようメッセージを送り続けた。
1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明に最も過敏に反応したのは日本人であった。町々の商店には「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊ったり、日本の新聞はマッカーサーが大統領に選出されることを期待する文章であふれた。そして、4月のウィスコンシン州の予備選挙でマッカーサーは共和党候補として登録された。
マッカーサーを支持している人物には、軍や政府内の右派を中心に、シカゴ・トリビューン社主のロバート・R・マコーミック(英語版)や、同じく新聞社主のウィリアム・ランドルフ・ハーストがいた。『ニューヨーク・タイムズ』紙もマッカーサーが有力候補であることを示し、ウィスコンシンでは勝利すると予想していたが、27名の代議士のうちでマッカーサーに投票したのはわずか8名と惨敗、結果はどの州でも1位をとることはできなかった。5月10日には陸軍参謀総長になっていたアイゼンハワーが来日したが、マッカーサーと面談した際に「いかなる軍人もアメリカの大統領になろうなどと野心を起こしてはならない」と釘を刺している。しかしマッカーサーは、そのアイゼンハワーのその忠告に警戒の色を浮かべ、受け入れることはなかったという。
6月の共和党大会では、マッカーサーを推すハーストが数百万枚のチラシを準備し、系列の新聞『フィラデルフィア・インクワイアラー』の新聞配達員まで動員し選挙運動をおこない、マッカーサーの応援演説のために、日本軍の捕虜収容所から解放された後も体調不調に苦しむジョナサン・ウェインライトも呼ばれたが、第1回投票で1,094票のうち11票しか取れず、第2回で7票、第3回で0票という惨敗を喫し、結局第1回投票で434票を獲得したトーマス・E・デューイが大統領候補に選出される。
日本では、マッカーサーへの批判記事は検閲されていたため、選挙戦の情勢を正確に伝えることができなかった。『タイム』誌は「マッカーサーを大統領にという声より、それを望まないと言う声の方が大きい」と既に最初のウィスコンシンの惨敗時に報道していたが、日本ではマッカーサーより有力候補者であったアーサー・ヴァンデンバーグやロバート・タフトの影は急激に薄くなっていった、などと事実と反する報道がなされていた[324]。その結果、多くの日本国民が共和党大会での惨敗に驚かされた。その光景を見た『ニューヨーク・タイムズ』は「日本人の驚きは多分、一段と大きかったことだろう。……日本の新聞は検閲によって、アメリカからくるマッカーサー元帥支持の記事以外は、その発表を禁じられていたからである。そのため、マッカーサー元帥にはほとんど反対がいないのだという印象が与えられた」と報じている。
大統領選の結果、大統領に選ばれたのは現職のトルーマンであった。マッカーサーとトルーマンは、太平洋戦争当時から占領行政に至るまで、何かと反りが合わなかった。マッカーサーは大統領への道を閉ざされたが、つまりそれは、もはやアメリカの国民や政治家の視線を気にせずに日本の占領政策を施行できることを意味しており、日本の労働争議の弾圧などを推し進めることとなった。イギリスやソ連、中華民国などの他の連合国はこの時点において、マッカーサーの主導による日本占領に対して異議を唱えることが少なくなっていた。

※ 写真はマッカーサー候補を米国大統領にという看板を掲げた日本の建築会社

#マッカーサーと現代日本の夜明け #みやざきアートセンター #ベアテ

住所

橘通東3丁目3番27号
Miyazaki-shi, Miyazaki
880-0001

営業時間

月曜日 10:00 - 18:00
火曜日 10:00 - 18:00
水曜日 10:00 - 18:00
木曜日 10:00 - 18:00
金曜日 10:00 - 18:00
土曜日 10:00 - 18:00
日曜日 10:00 - 18:00

アラート

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